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●日本に住む人々と『死』
太平洋戦争が終わってから、80年以上が過ぎようとしています。
戦後の日本は、高度成長期やバブルの時代を迎え、その後それが崩壊し、現在に至りました。
その間に、日本人の宗教観も大きく変わっていきました。
戦争であまりにも多くの『死』を目の当たりにし、明治以降から戦争終結までの時代を忌み嫌うと同時に、二世代・三世代が同居する『家族』という習慣すら避けるようになり、昔の家の中で常に隣合わせにあった『死』そのものが存在しないかのようになっているのが、現代の日本社会ではないでしょうか。
病院や老人施設の片隅で生涯を閉じ、そのまま葬儀会館に搬送され、今や葬儀どころか直葬という形で、まさに一人の人間の生涯が生きている人間によって抹消される、『生きている人間こそが正義』のような感覚をもった人々が大手をふって闊歩する時代に、日本という国はなろうとしています。
また、それを後押しするかのような新興宗教も跋扈しています。
●生きている人間の利益
さて、現代の日本社会では、『死』というものが生活の中で覆い隠されてしまい、そこに住む人々は永久に「生」を追い求めることができるかのような錯覚に陥っています。
そうなると、生きている間にその欲を満たしたいという強欲な人間がのさばることになり、その目的達成のために人を人とも思わない社会が自ずと形成されていきます。
つまり、今日の社会問題の根本にあるのは、その行き過ぎた『生』への追求、そしてそもそも生きている間に人は何を探求しなければならないのか、が分からなくなった社会に原因があると私は考えます。
確かに私も一人の人間として、お金持ちになりたい、欲しい物を手に入れたい、スポーツや試験で勝ちたいなどといった、この現世での希望が叶う、つまり「幸せに生きたい(現世利益:げんせりやく)」と祈り願う気持ちは非常に理解できます。
しかし、後述しますが「幸せに生きる」ということは、「お金持ちになる」・「自分の欲望のために祈った願いを叶えること」ではないのです。
●利益追求と道徳観
ここで少し話が変わりますが、現在のインドや中国では仏教はほとんど信仰されていません。
お隣の韓国でも、仏教徒は宗教を信仰する人々の半数に過ぎません。
しかし、それには理由があり、インドや中国では土着の民族宗教(儒教も民族宗教と考えます)が仏教に取って代わった歴史があり、韓国においても戦後キリスト教が急速に勢力を伸ばしました。
しかし、これらの国々は仏教の影響が無くなった後も、現世利益と道徳観念を、これまでの文化と宗教で上手くバランスを取りながら現代に至っています。
では、日本はどうかと言いますと、日本の文化や国民性から見ても、これから国民の大多数がキリスト教をはじめとする一神教文化や儒教思想に変化する時代は来ないと思います。
それは基本的に、『現世利益』=神道(神社)を受け入れることができる仏教との組み合わせが、他のものより本来の日本人の感性に合っているからだと考えます。
ところが、その『現世利益』も度を越すと、最終的には先の大戦直前に陥ったような社会現象を生み、日本はまた同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
平安時代に大成し、1000年もの間受け継がれてきた『神仏習合』という思想を、明治初期に施行された『神仏分離令(廃仏毀釈)』によって破壊し、『国家神道』というこれまでの神道とは異なる「日本の国家のことのみを考えた偏った思想」で門出を迎えた明治日本が、どのような結末を迎えたかは、皆さんもよくご存知だと思います。
しかし残念ながら、一度壊れた『神仏習合』という文化・思想は戦後復活することもなく、古い時代や思想は何でも否定する戦後日本の間違った観念のもと、今また「自分さえ良ければ」といった考えが蔓延し、社会を蝕み始めています。
●日本においての仏教の役割
本来、宗教に関して我々の祖先は、程よい現世利益と先祖崇拝信仰を、一つの宗教に偏らず平和共存させる『神仏習合』という概念で共存させ、長く日本の文化・生活の基盤を守り続けてきました。
私たち僧侶は、もう一度そのような正しい宗教観・宗教史を現代の日本に住む人々に語りかけ、その根底にあるご先祖様を敬う心を掘り起こし、大切にしてもらうことに気づいていただく努力をしなければなりません。
そして、その亡くなった方々を敬う気持ちと共に、もちろん今を生きる皆さん自らが「幸せに生きること」を追求していくことも大切です。
しかしその「幸せ」とは、いったい何なのでしょうか。
「幸せ」とは、自分の欲求を満たすことなのでしょうか。
先ほども書きましたが、「幸せに生きること」=「お金持ちになる」・「自分の欲望のために祈った願いを叶えること」ではありません。
なぜなら、仮に「お金持ち」になって欲しい物を手に入れたとしても、その欲求がそこで永久に充足することは決してありません。
それは、ある程度のお金持ちになっても、人はもっとお金が欲しくなる生き物だからです。
また願い事に関しても同様に、自分の欲望のために祈った願いが叶えられ、その時は満足できても、すぐにさらなる次の欲望が生まれ、もうそうなると最初の願いが叶った時に感じた幸せはすでに過去のことでしかなく、結局そのスパイラルに終わりはありません。
この際限の無い欲望を止め、本当に「幸せに生きること」とは、
『お金や物を得たり、自分の欲望を叶えることではなく、自分の心の中を本当に大切なものによって常に満たされた状態にすること』
であり、これは誰でも必ず、その状態を得ることができます。
本来、仏教とはそういった
『自分の心の中を本当に大切なものによって常に満たされた状態にする=安心』
(煩悩から解放される、悟りの状態)
を、生きている間に見つけるための教えなのです。
21世紀になり、今やっとそれらに気づき始めている方も増えてきたように感じます。
仏像の展覧会などが盛況であることは、日本に住む人々の持つ本来の心が、無意識にそこへ足を向けさせるのかもしれません。
また、特に「自分は無神論者だ。」と言う方の心の中にも、本当は悟りへの源である仏心があるのだということに気付いてもらいたい(自覚)と、常日頃思っています。
ぜひ、皆さんと葬儀や法事を通して人の死を考え、そして悲しみを癒す行為の中から、その『安心』(悟り)を学び合うことができれば幸いです。
最後になりましたが、当寺院で現在仏事をお勤めしているお家の方の中で、昔からの檀信徒の方々は半数ほどで、残り半分は私が住職になってからの『ご縁』です。
私は何事も『ご縁』だと思っていますので、これまで当寺院と縁のなかった方でも、いつでもご遠慮なくお問い合わせいただければと思います。
普照院住職 合掌
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