住職より
日本に住む人々と『死』

太平洋戦争が終わってから、80年以上が過ぎようとしています。
戦後からの日本は、高度成長期・バブルの時代を迎え、その後それが崩壊し現在に至りました。

そしてその間に、日本人の宗教観も大きく変わっていきました。
戦争であまりにも多くの『死』を目の当たりにし、明治以降から戦争終結までの時代を忌み嫌うのと同様に、二世代・三世代が同居する『家族』という習慣すらをも避けるようになり、昔の家の中でいつも隣合わせにあった『死』そのものが存在しないかのようになっているのが、現代の日本社会なのではないでしょうか。
病院の片隅で生涯を閉じ、そのまま葬儀会館に搬送され、今やそれが葬儀どころか直葬という形で、まさに一人の人間の生涯を生きている人間によって抹消される、『生きている人間こそが正義』のような感覚をもった人達が大手をふって闊歩する時代に、いま日本という国はなろうかとしています。
またそれを後押しするかのような新興宗教も、跋扈しています。

生きている人間の利益

さて現代の日本社会では、『死』というものが生活の中で覆い隠されてしまい、そこに住む人間は永久に「生」を追い求めることが出来るかのような錯覚に陥っています。
そうなると、生きている間にその欲を満たしたいという強欲的な金儲け拝金主義者がのさばることになり、その目的達成の為に人を人とも思わない社会が自ずと形成されていきます。

つまり今日の社会問題の根本にあるのは、その行き過ぎた『生』への追求、そしてそもそも生きている間に人は何を追求しなければならないのか、が分からなくなった社会に原因があると私は考えます。

確かに私も一人の人間として、この現世で毎日を「幸せに生きること」(現世利益:げんせりやく)ができるように祈る気持ちはとても理解できます。
ただ、「幸せに生きること」は「お金持ち」になることではありませんし、例え「お金持ち」になったとしても、その欲求が充足することは決してありません。

利益追求と道徳観

少し話が変わりますが、現在のインドや中国で仏教はほとんど信仰されていません。
お隣の韓国でも、仏教徒は宗教を信仰する人々の半数でしかありません。
しかしそれには理由があり、インドや中国では土着の民族宗教(儒教も民族宗教と考えます)が仏教に取って代わった歴史があり、韓国においても戦後キリスト教が急速に勢力を伸ばしました。
しかしこれらの国々は、仏教の影響が無くなった後も現世利益と道徳観念を、これまでの文化と宗教で上手くバランスを取りながら現代に至っています。

では日本はどうかと言いますと、日本の文化そして国民性から見ても、これから国民の大多数がキリスト教をはじめとする一神教文化・儒教思想に変化する時代は来ないと思います。
それは基本的に、『現世利益』=神道(神社)を受け入れることが出来る仏教との組み合わせが、他のものより本来の感性に合っているからだと考えます。

ところがその『現世利益』も度を越すと、最終的には先の大戦直前に陥ったような社会現象を生み、日本はまた同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
平安時代に大成し1000年もの間受け継がれてきた『神仏習合』という思想を、明治初期に施行された『神仏分離令(廃仏毀釈)』により破壊し、『国家神道』というこれまでの神道とも違う「日本の国家のことのみを考えた偏った思想」で門出を迎えた明治日本が、どのような結末を迎えたかは、皆さんもよくご存知だと思います。

しかし残念ながら、その一度壊れた『神仏習合』という文化・思想は戦後復活することもなく、古い時代や思想はなんでも否定する戦後日本の間違った観念のもと、今また「自分さえ良ければ」といった考えが蔓延し社会を蝕み始めています。

日本においての仏教の役割

本来宗教に関して我々の祖先は、程よい現世利益と先祖崇拝信仰を、一つの宗教に偏らず平和共存させる『神仏習合』という概念で共存させ、そして長く日本の文化・生活の基盤を守り続けてきました。
私たち僧侶は、もう一度そのような正しい宗教観・宗教史を現代の日本に住む人々に語りかけ、我々が生きるにあたり宗教(=道徳)というものは必要不可欠のものであること、そして日本の場合は特にその根底にご先祖様を敬う心があり、それを大切にしていかねばならないことを訴えかけなければならないのです。

そして亡くなった方々を敬う気持ちと共に、もちろん今を生きる私たち自らが「幸せに生きること」を追求していくことも大切です。
しかしその「幸せ」とは、いったい何なのでしょうか。
「幸せ」とは、自分の欲求を満たすことなのでしょうか。

先ほども書きましたが、「幸せに生きること」は「お金持ち」になることではありません。
なぜならある程度のお金持ちになっても、人はもっとお金が欲しくなる生き物だからです。
また祈った願いが叶えられたとしても、それは一瞬の幸せでしかありません。
お金と同じく、人間は際限なく新たな願いを生み続けていく生き物だからです。

この際限の無い欲望を止め、
本当に「幸せに生きること」とは、

『自分の心を満たす状態にすること』


であり、これは誰でも必ず、その状態を得ることができます。
本来、仏教とはそういった
『自分の心を満たす状態にすること=安心』煩悩から解放される状態
を、生きている間にみつけるための教えなのです。

21世紀になり、今やっとそれらに気づき始めている方も増えてきたようにも感じます。
仏像の展覧会などが盛況であることは、日本に住む人々の持つ本来の心が、無意識にそこへ足を向けさせるのかもしれません。
是非、皆さんと葬儀や法事を通して人の死を考え、そして悲しみを癒す行為の中から、『安心』を学び合うことができれば幸いです。

そして最後になりましたが、当寺院で現在仏事をお勤めしているお家の方の中で、昔からの檀信徒の方々は半数ほどで、残り半分は私が住職になってからの『ご縁』です。
私は何事も『ご縁』だと思っていますので、これまで当寺院と縁の無かった方でも、いつでもご遠慮なくお問い合わせ下さればと思います。

 普照院住職     合掌
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